春とは思えぬ程、ブルーグラードの土は凍て付いていた

       とカノンがブルーグラードの固い凍土を踏んだのは、3月下旬のことだった
       日本では桜前線が順調に北上の途にあるこの時期であるが、最果ての地・ブルーグラードにはその桜すら根付く事は無い
       凍り付いたままの土は、育むべき物も久しく知らぬが如くただ其処に存在しつづけるだけだった
       何百年…否、何千年もの間、土はただ黙して自らの上に立つ総ての生命の存続を拒否してきたのだろう


       「此処に…こんな所に人が住んでいるなんて…。」


       カノンと共にこの土地に初めて降り立った時、は心底悲しい心境に陥った
       無論、このような土地に遣わされた自分にではなく、長い間此処に住み続けることを強いられ続けているブルーグラードの人達に対して、である


       「憐れと、思うか?」

       「え?」


       ふと気付くと、斜め上の角度から見下ろすようにしてカノンがを見据えていた
       無言で立ち尽くすの横で、カノンは長い腕を組んだままその場を動く気配すら見せない


       「…『憐れ』というのではなくて、辛い、と。…悲しいことだと思う。」


       は地面に視線を落とし、ようよう胸の裏(うち)を言葉に紡ぎだした


       「辛い…か。だがな、。」


       カノンは、の言葉に短く応えると、顔を上げて遥か前方を見据えた

       永久凍土
       人が生きることさえ適わぬ程に美しい、白の領域


       「彼等を此処に追い詰めたのは、他でもない彼等自身だ。
        …弱い者は淘汰される、唯それだけのことだ。
        頗る自然の摂理に従っているとしか俺には考えられん。」

       「カノン…貴方、本気でそう思っているの?」


       吐き捨てるようなカノンの言葉に、はカノンを激しく睨め付けた
       その眼には、怒り、軽蔑、様々な負の感情が赤く映っていた
       その表情を一瞥したカノンは、目を細めて口の端を僅かに上げた


       「…ああ。俺の意見の何がおかしい?お前の存在一つ取ってみてもそうだ。
        お前の祖先が弱者に打ち勝って来た上にその存在が築かれているに過ぎん。
        どこかで何かに打ち負かされたなら、淘汰されていただろう。
        …そしてその結果お前は存在しなかった。それでお終いだ。」

       「…それは、自分が生まれるまでの話でしょう?その人がどう生きるかとは別の次元の問題だわ。」

       「違わんさ。生まれながらにして弱者・敗者であったなら、辿るべき道は滅亡のみだ。」


       カノンは、憎悪を込めて自分を睨みつけるの顔を横目でちらりと見下ろした


       「…その状況に甘んじず、彼等がそれを逃れる事を望むのであれば、残された方法は一つ、"闘う"のみだ。」

       「…闘う?」

       「そうだ。直接彼等を追い込んだ存在と闘い、勝つことだ。
        それまでは彼等が何を主張したとて、唯の敗者の戯言(たわごと)に過ぎんさ。」

       「彼等に…剣を取って闘えと、貴方は言うの!?」

       「…剣だけではない。それ以外の多くの方法がある。
        人間は禽獣とは違う、そのために与えられた頭脳だろう。」


       そこまで言うと、カノンは自分の右手での顎を軽く掴んで上向かせた
       は抗って顔を横に振ったが、カノンはいとも簡単にその力を封じた
       自分の目の前に、徐々にカノンの顔が近付いて来る
       それでもはカノンの目を睨みつけるのを止めなかった

       此処で眼を逸らしたら、自分の負けだ
       少しでも人々の役に立ちたいと願って此処にやって来た自分の志が「力の理論」に打ち負かされてしまう
       それだけは、絶対に許せない

       の瞳が、その意志の強さを宿して鋭く煌いた



       「……フ。」



       の顔の目の前で、カノンが突然その青い眼を細めて笑いを発した
       作り物のように端正なその顔に、アイロニックな笑みが波紋を広げる
       憎いと心底思っていても、その美しい漣には一瞬引き込まれた


       「差し当っては、だ、その意気込みを彼等の理解の促進に向けてみることだ。
        彼等を能く識れば、彼等の為すべき事も自ずから見えてくるだろうよ。」


       カノンはの顎から手を離して、背を向けた


       「…日が暮れたら更に冷え込む。それまでに住処に辿り着くぞ。」


       を振り返りもせず、カノンはそのまま前進を開始した
       怒りとよく判らない感情とが入り混じって、は混乱を来して立ち尽くしたままだった
       暫し後、「日が暮れる」と前方から届いた声にハッ、と我に返り、はカノンの背中を追った













       カノンと、二人が暮らす事になった住居は小屋と言っても差し支えの無い造りだった
       元々は炭焼用に造られたと思しきその小屋は、小さくとも立派に暖を取ることができる重厚な構造を呈していた
       唯、財団が調達した小屋にしては少々古いなとだけと思ったは、カノンに直接尋ねてみた


       「…いや、俺が調達した小屋だ。こう見えても俺にも知己というものが存在するんでな。」


       カノンは短く且つ無表情に応えると、燃料用の炭を置いてある裏の物置へと出て行った

       小屋は、丁度2人程度が暮らすのに適した広さと部屋数を具えていた
       一番大きな部屋をダイニングに、それに隣接する2つの小部屋をカノンと、それぞれの寝室に充て、床(とこ)の下にオンドルを配した
       こうでもしないと、極寒のこの地では眠っている間に凍死してしまう惧れがあるからだ

       カノンは黙々と能く働いた
       先程述べた部屋のカスタマイズを始め、細々とした仕事は皆、彼が過不足無く片付けていった
       付近には民家らしき建物も見当たらないこの環境では、認めるのが悔しいがカノンの存在は必要不可欠であろう
       実際のところ、カノンがそうした仕事を一手に引き受けてくれているおかげで、
       は本来自分の任務であるブルーグラード住人の調査の下準備や資料の通読などにより多くの時間を充てることが可能となっていたのだから、
       の胸の裏を問わず彼の存在の重要性は日を追っていや増すばかりであった
       …本人は、それでもカノンに心を許すつもりは未だ無いのであるが












       とカノンに遅れること一週間、NGOの残りのメンバー達がブルーグラードに到着したとの知らせが入った
       合流の連絡を受けて、カノンがを現地に送り届けることになった
       集合場所は、ブルーグラードの中心地・ガルボイグラードの一角の白い建物だった
       その場所が、これからはの属するNGOの本部に充てられることになっている
       建物のすぐ側まで着くと、カノンはの背をポンと片手で軽く叩き、踵を返した
       咄嗟にがその手を掴む


       「カノンは…貴方は行かないの?」

       「いや、残念ながら俺はメンバーじゃない。
        …俺はあくまでもお前一人の護衛として此処に来ているんでな。」

       「…え?じゃあ、これからの時間はどうするの?」

       「さあな。そのあたりで油でも売るさ。
        心配するな、お前の仕事が終る頃にはまた此処に迎えに来てやる。」

       「…心配なんかしてないわ、別に。ただどうするのかと思っただけよ。」

       「そうか、それは重畳。…ではな。まあせいぜい頑張ることだ。」

       「………。」


       カノンという男は、決して振り返る事をしない
       それは、彼の持つ意思の硬さがあたかも行動として表面に浮かび上がっているかのようだ
       自分自身の気の強さはすっかり棚の上に上げて、はカノンと言う男の存在の片隅に得体の知れない軋みを感じ始めていた
       意思の激しさとは裏腹に、カノンの目はどこか冷めた色を呈している
       諦観のような、虚無感のような、何か世を拗ねた部分が彼の中には見受けられた
       もしかすると、何人もの人間が彼の内側に同居しているのではないかとが疑うほどにその表情は複雑不可解なものだった
       …たった数日一つ屋根の下に暮らしただけでそう感じられる程だ、上司である沙織に訊けばきっと何か判るかもしれない
       …勿論、そのようなことはこの地にあっては実行不可能であるし、いくら彼女の方が親しく接してくれるにしても憚られることではあるのだが
       今は…とにかくカノンは実にこまめに働いてくれるし、彼のおかげでこの絶望の凍土に暮らす事が可能となっているのが何より確かな事実だ
       別段、彼の方から自分に働きかけて来るわけでもない
       それなら互いに互いの事情には不干渉で良いのではないか

       は、カノンが姿を消した街角の、更にその上の空を見詰めた
       極寒の凍土の空は、薄暗くどんよりと低い雲が垂れ込めていた









       グループミーティングを終えたがNGOの建物から出てきたのは、約4時間後のことだった


       「…寒い…。」


       暖の行き届いた建造物から一歩出た途端、は数時間ぶりの外気に身体を強張らせた
       襟元を深く閉じても尚胸元に滑り込む冷気に首を竦ませたの視界に、カノンの姿が映った
       向かいの建物の茶色い壁に緩やかに背を凭れまったくあさっての方向を向いていたが、の姿を察知するとそのまま真っ直ぐ歩いて来た


       「…帰るぞ。」

       「…ええ。」


       殆ど無言のまま、二人は帰途を歩き出した








       「…ねえ、カノン。一つ訊きたいんだけど。」


       凍った雪を踏み分けるザクザクという二人分の鈍い音だけが響く中、が口火を切った


       「何だ?」

       「…グループの他のメンバーは皆、ガルボイグラードの本部の近くのフラットに住んでいるのに、
        何で私達だけこんなに距離の離れた所に住んでいるのかしら?」

       「俺が知り合いから借りた家がたまたまあそこにあっただけだ。それ以外に深い理由は無い。」

       「…ええ。それは分かってるわ。でも、民家も近所に見当たらない程離れた場所じゃ、これから本部に通うのが大変だわ。」

       「俺が毎日、送り迎えに当たる。心配するなと言った筈だが、何か不満か?」

       「…いいえ、そうじゃなくて。貴方にそんなに迷惑は掛けられないし、貴方だって他に仕事もあるでしょう?
        だったら、それを優先して。」

       「お前は自分の任務にだけ専念しろ。それが俺の任務の内だからな。」


       が総てを言い終えないうちに、その言葉をカノンが遮った


       「俺の任務は、、お前を護ることだ。例え何が起ころうとも、必ずお前を任地に送迎してやる。
        余計な心配はするな。判ったら帰るぞ。」


       それ以上カノンは言葉を紡ごうともせず、二人は終始無言のまま家路を辿った









       翌日からの任務が本格的に始まった

       朝、カノンに伴われて本部まで辿り着くと、その日の細かい任務内容を伝達され、遂行する
       夕刻に近くなった頃、本部に一旦戻りその日の任務の報告を終え、日が落ちる前にカノンと家に帰る
       大方のサイクルはそのような感じだった

       毎朝、本部の手前まで来るとカノンは何処かに姿を晦ませ、の仕事が終る頃には本部の白い建物の周辺でを待っていた
       が任務に当っている間、カノンが一体何をしているのかは全く以って不明だった
       だが、は今やカノンに過干渉しないことに決めていたので別段それを気に留める機会も皆無に等しかった

       …家の手入れや食料の調達などをしているのだろう

       その程度くらいにしか考えないようにしていた
       人の行動と言うのは、疑い始めたらそれこそきりが無いのだから







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